大正から昭和初期にかけて、別府に数多くの文化の香り溢れる建築物が建てられました。それは、公共施設や学術施設、伝統建築による温泉施設、全国の財界人による別荘や私邸など様々な分野に及びます。
 そして別府は、第二次世界大戦で空襲による戦火を免れ、多くの建築文化遺産を守ることができました。しかし、それら近代化建築は老朽化が進み、惜しまれながらも取り壊しになったものや、取り壊しになろうとしている物も多数あります。
 私たちは、この聴潮閣を一般公開しながら保存保護をすると同時に、別府の多くの近代化建築遺産を守っていく運動を行っています。





中山別荘(山の手)

大正9年5月に竣工した中山別荘は、アメリカ風建築で、客間、居間、食堂と続く本格的な洋室部分を持ち、ステンドグラスの窓や照明器具など大正ロマンを感じさせます。戦後はアメリカ進駐軍の司令官宿舎にもなった歴史があります。

旧麻生別荘(山の手)

紅紫迎賓館と呼ばれる飯塚の炭坑王、麻生太吉氏の別邸で、昭和2年に火災に遭い、その後再建されたものが、現在の建物です。中山別荘と同じように、今は一般には公開されておりません。


竹瓦温泉(元町)

昭和初期に建てられた別府の市営温泉は、個性豊かなユニークな物が多数ありますが、その中でも竹瓦温泉は時代を経ても別府を代表する温泉と言えるでしょう。昭和13年に竹瓦温泉が改築された時は、豪放華麗なその建物を寺院と見間違えて手を合わせて通った観光客もいたといわれています。入り母屋造の裳階付きや寄棟造の変化に富んだ瓦屋根の美しさを持つ社寺風建築です。

浜田温泉(亀川浜田町)

昭和10年、亀川、石垣、朝日の1町2村が合併され、大温泉都市・別府が誕生しました。それを祝って生まれた、実に堂々とした宮造りの記念碑的な建物です。平成13年、老朽化を理由に市による取り壊しの危機がありましたが、市民による保存運動がきっかけとなり、平成17年に篤志家からの寄付により再建されました。聴潮閣館長・高橋鴿子は、保存運動の代表の一人でした。


京都大学 地球物理学研究施設
(野口原)

赤煉瓦の大正建築として有名なこの研究施設は、大正13年に当時の京都大学営繕課長永瀬狂三氏の設計により竣工しました。玄関と塔屋を中心に左右対象に振り分けられた設計、大小の柱型を交互に配して、その間に上げ下げ窓をとり、上下を白い帯で締めて、気品のある均整のとれた外観、ギリシャのイオニア式の柱頭など、クラシックで気品ある建築です。

野口病院(野口中町)

トンガリ帽子の赤い屋根をもつシックな病院建築である野口病院は、大正11年に、初代院長の野口雄三郎博士により開設されたものです。木造2階建の洋風建築は、当時と同じように現在も管理棟として使われています。四角錐の尖頭屋根をもつ玄関部分を中心軸に、両翼に半切妻洋瓦葺の屋根をもち、内部は、天井も高くゆったりした明るい設計です。


中央公民館(別府市公会堂)

 大正末期から昭和初期にかけて、別府が国際的な温泉都市を目指し意気盛んな頃の代表的な公共建築です。設計は当時日本の建築界をリードしていた逓信省営繕課の吉田鉄郎。この別府市公会堂を設計した後、東京や大阪の中央郵便局を設計し、日本の近代建築に大きな影響を与えた人です。
 彼はこの公会堂を設計するときにストックホルムの市庁舎を思い浮かべています。それは芸術的に最高の質をもち、彼が心のふるさととしたスウェーデンの代表的建築で、その心を生かして別府の地に端正で気品に満ちた美しい建築を創り上げました。
 昭和3年の竣工のときは、正面中央に石段があり、2階が玄関になっていましたが、現在は石段が取り外され、1階部分に日射しが付けられ玄関となっています。





ふるさとガイド 大分の建築界の大御所村松幸彦先生の別府の建築コラム。建築に対するコメントだけでなく、街並、歴史的背景などを含めた興味深いコラムです。
別府近代建築22+2 大分大学の佐藤誠治教授の研究室の別府近代建築紹介のページです。
別府八湯ウオーク 地元ボランティアガイドと別府の路地裏を巡る。戦災にあわなかった別府の路地裏。そこには、温泉と共に生きる別府の文化がたっぷり。肌で感じるウオーキングツアーです。聴潮閣は「山の手レトロ散策」のお立ち寄り所です。
浜田温泉館の保存運動の記録 戦災を免れた別府の街。大正・昭和の建築遺産は、運良く次世代へと受け継がれました。しかし文化を省みなかった高度成長期、その多くが破壊されていきました。
市が取り壊しを打ち出した浜田温泉の存続を求める市民運動は、浜田温泉だけの問題に終わることなく、別府の建築文化遺産を守る意味について考えさせられました。