聴潮閣は昭和4年(1929年)、当時別府の政財界の中心人物であった高橋欽哉によって住居兼迎賓館として建てられました。

 高橋欽哉は慶応2年(1866年)大分郡西庄内村(現庄内町)の庄屋佐藤家に生まれ、明治22年(1890年)、25歳の時に速見郡浜脇村(現別府市浜脇)に於いて旅館「泉孫」を経営する高橋孫三郎の養子となりました。
 「泉孫」は、当時150軒もの宿が連なった別府の温泉の中心であった浜脇温泉に於いて、最先端の設備を備えた高級旅館として大いに人気を集めました。

 高橋欽哉は明治39年(1906年)別府町、浜脇町の合併による新生別府町の初代助役に抜てきされ政界へと踏み出し、助役在職7年の間に市区改正、上水道、温泉の整備に手腕を発揮しました。
 その後、町会議員、町会議長を歴任して、大正8年(1919年)には県会議員選挙に立候補し当選、更に昭和5年(1930年)、民政党より衆議院選挙に出馬し当選、別府初の衆議院議員になり政治家としてのスケールを広げて行きました。
 事業の分野でもその手腕を買われ、昭和4年(1929年)大分農工銀行(現みずほ銀行大分支店)の頭取となり、別府商工会議所初代会頭としても活躍しました。
 大分農工銀行本店→第一勧業銀行大分支店→みずほ銀行大分支店の建物は、高橋欽哉が計画・建設させたもので、その堂々としたセンス溢れる近代建築として、大分の建築史の大きな一ページとなり、現在にも生きた近代化建築のひとつとなっております。
 また円形でハイカラ趣味と人気を博した名建築、昭和3年(1928年)に作られた浜脇高等温泉もこの時代の高橋欽哉の業績の一つといえるものです。(残念ながら浜脇再開発により取り壊し)
 聴潮閣が別府市浜脇に建てられた昭和4年(1929年)の頃は、高橋欽哉にとっても、別府にとっても戦前の最も栄華を極めた時代でした。

高橋欽哉